私の知らない人と会っているのだろう。私の知らない話、仕草、笑い方をするのだろう。長いメールを女友達と言っていた人に送っていた。私なんかあなたのこういうところが腹が立ちますといった内容のメールしか長文できたことがない。絵を見ても描いても音楽を聴いても映画を観ても彼のことを思い出す。いつか気が狂ってしまうかもしれない。一生つくり続けてだとか何もつくっていないあなたには何の価値もないと言われた呪いにかかったまま生きていかないといけない。呪いから解き放たれることはないだろう。私もそれを望んでいる。何かをつくることは苦しい。絵を描いて楽しいなんて思ったこと無いかもしれない。ただ受験期の時、水が入ったペットボトルのデッサンをしているとプラスチック越しに見える水、その奥の景色、反射する光がすごい情報量で目に飛び込んで来て光の粒たちが無限に見えた。あのときの経験は忘れないと思う。そういう救いのようなものを感じる時、美術の持っている力を感じる。見ることと作ることの間にどのような違いがあるのか私はまだ分からない。小さいころ何かが綺麗だったとか思ったことを覚えていない。人より美しいと感じることが少なかったんじゃないかと思う。周りのものがすべて敵に思えて恐れていた。その恐れを怒りとして外に出していた。感動する余裕が無かったのかもしれない。だから今は幼少期のやり直しをしなければいけないと思っている。このやり直しをすることがこれからの目的だ。と思っているが死にたい気持ちが今めちゃくちゃ高まっている。もう本当に無理だ。愛して欲しい人に愛されないことが分かっていて、一緒に居たい人と一緒に居ることができないと分かっているのに生きていかなければいけないのが辛い。他の人はどうしているんですか?どうして割り切れるのだろう、嫌いになれるのだろう。とうの前に魂を捧げてしまっていて、それを持って帰ってこなくてはならない。ずっとふらふら肉体だけが動いていて今の状態は生きているとは思わない。中身を取り戻すということ、でも渡してしまっているのだ。彼はこうなることまで分かっていた。分かっていた上で私と関わった。私も分かっていたつもりだったが何一つ分かっていなかった。ごめんなさい、もう無理です。